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中日ドラゴンズファンのみなさんこんにちは!このサイトではプロ野球球団である中日ドラゴンズの選手のプロフィールや実績などを紹介しています。
球団の簡単な概要なんかも掲載しています。
井端弘和について
井端弘和(いばたひろかず))
1975年5月12日生まれ。
神奈川県川崎市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。

井端弘和プレースタイル
二塁手の荒木雅博と共にドラゴンズの内野の要であり、荒木との二遊間は黄金の二遊間として知られている。。
2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田一浩特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。だがオープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田一浩によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている(金森の打撃理論を理想的に実践しているため)。 捕手出身ゆえに強肩で送球も正確であるが、守備範囲が狭く、打球を見失うなどお粗末なプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。
堅守のほかにも、毎年3割前後の打率を残している上に選球眼に優れ四球も選べるので、出塁率も安定しており走者の盗塁をアシストする場面も目立つ。頻繁に二桁盗塁を記録するなど足も速い。更に三振が少なく、バントや右方向への流し打ちも上手い等非常に器用な選手で主に2番打者として活躍している。
井端弘和プロ入り前
中学までは投手、堀越高校時代に夏の甲子園に出場。その後亜細亜大学に進学。東都大学リーグ1部リーグ通算81試合出場、269打数78安打、打率.290、4本塁打、33打点。3季連続ベストナインに選ばれた。1998年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。
井端弘和プロ入り後
入団から2年間は二軍生活で、1999年は一軍出場なし、2000年から後半の守備固め、代走としての出場が主であったが、翌2001年から遊撃手のレギュラーに定着して全試合出場を果たして以来、不動の遊撃手として活躍。2004年には、チームの柱としてリーグ優勝に貢献し、自身初となる打率3割とベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞する活躍をみせた。
伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。
国際経験は多く、2001年台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)日本代表を経て、2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝し、オリンピック出場に貢献した。2007年の北京オリンピック予選にも出場し、本戦出場権獲得に貢献した。
2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言、2008年12月16日に球団史上最長の5年契約を結ぶ。2008年12月22日、テレビ朝日アナウンサー河野明子と結婚。
肩の故障もあり2009年シーズンから二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木が開幕直前に足を痛めたことで見送られ、遊撃手として2009年の開幕を迎えた
井端弘和エピソード
中学時代(城南品川シニア)は豪腕投手として有名。2年生の時、1安打完封を成し遂げた試合を、偶然、当時評論家であった現楽天イーグルス監督の野村克也氏が見ており、野村氏から実家に「堀越(学園高)に行って内野をやらせてみたら」と電話があったことがきっかけで、堀越高校に進学し、1年生で遊撃手のレギュラーになった。現在でも、今の自分があるのは野村氏のおかげと語っている。
本人は「30代で結婚したい」と語っており、同い年でドラフトでも同期入団の川上憲伸とはお互いに「先に結婚する」と言い合っていた。結婚に関しては他の選手からネタにされていて、2007年シーズン開幕前に主力選手が出演したテレビ番組では、「今シーズンの抱負」として井上一樹が「結婚式の司会」、岩瀬仁紀が「友人代表挨拶」、福留孝介が「2次会の仕切り」などの発言をしていた。そして2008年12月にテレビ朝日の報道ステーションの河野明子アナウンサーと結婚した。
井端弘和(いばたひろかず))
1975年5月12日生まれ。
神奈川県川崎市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。

井端弘和プレースタイル
二塁手の荒木雅博と共にドラゴンズの内野の要であり、荒木との二遊間は黄金の二遊間として知られている。。
2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田一浩特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。だがオープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田一浩によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている(金森の打撃理論を理想的に実践しているため)。 捕手出身ゆえに強肩で送球も正確であるが、守備範囲が狭く、打球を見失うなどお粗末なプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。
堅守のほかにも、毎年3割前後の打率を残している上に選球眼に優れ四球も選べるので、出塁率も安定しており走者の盗塁をアシストする場面も目立つ。頻繁に二桁盗塁を記録するなど足も速い。更に三振が少なく、バントや右方向への流し打ちも上手い等非常に器用な選手で主に2番打者として活躍している。
井端弘和プロ入り前
中学までは投手、堀越高校時代に夏の甲子園に出場。その後亜細亜大学に進学。東都大学リーグ1部リーグ通算81試合出場、269打数78安打、打率.290、4本塁打、33打点。3季連続ベストナインに選ばれた。1998年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。
井端弘和プロ入り後
入団から2年間は二軍生活で、1999年は一軍出場なし、2000年から後半の守備固め、代走としての出場が主であったが、翌2001年から遊撃手のレギュラーに定着して全試合出場を果たして以来、不動の遊撃手として活躍。2004年には、チームの柱としてリーグ優勝に貢献し、自身初となる打率3割とベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞する活躍をみせた。
伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。
国際経験は多く、2001年台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)日本代表を経て、2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝し、オリンピック出場に貢献した。2007年の北京オリンピック予選にも出場し、本戦出場権獲得に貢献した。
2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言、2008年12月16日に球団史上最長の5年契約を結ぶ。2008年12月22日、テレビ朝日アナウンサー河野明子と結婚。
肩の故障もあり2009年シーズンから二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木が開幕直前に足を痛めたことで見送られ、遊撃手として2009年の開幕を迎えた
井端弘和エピソード
中学時代(城南品川シニア)は豪腕投手として有名。2年生の時、1安打完封を成し遂げた試合を、偶然、当時評論家であった現楽天イーグルス監督の野村克也氏が見ており、野村氏から実家に「堀越(学園高)に行って内野をやらせてみたら」と電話があったことがきっかけで、堀越高校に進学し、1年生で遊撃手のレギュラーになった。現在でも、今の自分があるのは野村氏のおかげと語っている。
本人は「30代で結婚したい」と語っており、同い年でドラフトでも同期入団の川上憲伸とはお互いに「先に結婚する」と言い合っていた。結婚に関しては他の選手からネタにされていて、2007年シーズン開幕前に主力選手が出演したテレビ番組では、「今シーズンの抱負」として井上一樹が「結婚式の司会」、岩瀬仁紀が「友人代表挨拶」、福留孝介が「2次会の仕切り」などの発言をしていた。そして2008年12月にテレビ朝日の報道ステーションの河野明子アナウンサーと結婚した。
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