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中日ドラゴンズファンのみなさんこんにちは!このサイトではプロ野球球団である中日ドラゴンズの選手のプロフィールや実績などを紹介しています。
球団の簡単な概要なんかも掲載しています。




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和田一浩
和田一浩について
和田一浩(わだかずひろ)
1972年6月19日生まれ。
岐阜県出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手、2001年までは捕手登録)。 ニックネームは同姓の和田勉にちなんだベンちゃん(ベン)、もしくはビッグベンなど。

和田一浩画像



和田一浩プレースタイル
独特の打撃フォームから弾き出す安定した打撃が特徴。2009年6月21日の対オリックス戦で通算打率ランク算出の最低ラインとなる4000打数に到達したが、その時点での通算打率.315は日本人右打者としては最高打率であり、三度の三冠王を獲得した落合博満(現中日監督、同じく右打者)をも上回る。(ちなみに、4000打数以上での歴代最高打率記録保持者はレロン・リー(元ロッテ)の.320である。)率だけでなく広角に長打も打てる強打者でもあり、2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo.1になっている。西武在籍時は、5番に和田一浩がいることで相手バッテリーが4番カブレラとの勝負を避けられない場面が多かった。
バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く、三振は少ない。スイングの後、腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもある。しかし最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事により併殺打が多い。
2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田一浩特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。だがオープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田一浩によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている(金森の打撃理論を理想的に実践しているため)。 捕手出身ゆえに強肩で送球も正確であるが、守備範囲が狭く、打球を見失うなどお粗末なプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。
レギュラー定着後、7年で3割以上を6度記録など華々しい記録をもっているが、シーズン100打点を記録したことは1度もない。原因としては故障などでフル出場した年が無いことと、前打者であるカブレラがホームランバッターであるためランナーが既にホームランによって帰されている場面があった事が挙げられる。得点圏打率は年によってややムラがある事も特徴。しかし、2006年シーズンは100打点にはとどかなかったものの19本塁打で95打点であった。しかし、その年は和田一浩がレギュラー定着後、唯一打率3割(.298)を切った年でもある。

和田一浩の人物像
週刊ベースボールに「和田勉」と誤植されたことがあった。
県立岐阜商業高校の同級生にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子がいる。
ただ、和田一浩と高橋尚子は高校時代は互いに面識こそあったものの会話をしたことは一度もなかったという。
母校では和田一浩と高橋尚子、高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼ばれている。
2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、イベントは大盛況のうちに終わった。
ここ数年捕手としての出場はないが、捕手がいなくなった場合捕手を守らせると中日首脳陣に言われているらしい
。 2009年からスタートした和田一浩自身のブログによると、今までパソコンではソリティアでしか使用したことがないらしい。
若い頃から髪が薄いが、和田一浩本人はそれほど気にしている様子も無く時々ネタにしているほどである。

和田一浩プロ入り後
1996年~
1996年度のドラフトで西武から4位指名され、捕手として入団。ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録した。 1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録した。

1999年
伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。

2000年
打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外のすべての打順でスタメン出場した。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。 シーズン前、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた1ケタの番号5を譲ってもらった。

2001年
東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外すべてに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。

2002年
新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着した。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打 33本、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかしレギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打と足を引っ張ってしまった。指名打者部門で初のベストナインを受賞。

2003年
前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞する。

2004年
アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。5月 30日の函館市千代台公園野球場での北海道日本ハムファイターズ戦で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦北海道日本ハムファイターズ戦で、横山道哉からサヨナラホームランを放ち、チームを勢い付ける。後に移籍することになる中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。

2005年
春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦(打率.319)以来12年ぶり。4年連続30本塁打には 3本届かなかった。

2006年
3月、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。
シーズンでは6・7月に不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献した。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。

2007年
9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録した。本塁打はレギュラー定着後最低の18本にとどまり、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)と、5番打者としては物足りない数字に終わった。この年は走者が詰まっている場面(一塁・一塁二塁・満塁)では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録してしまった(逆に走者なしでは.353と好調であった)。
この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、和田一浩本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決した。なお、背番号は西武時代と同じ"5"が内定し、3年契約となる。なお、それに伴う人的補償で岡本真也投手が西武に移籍した。

2008年
中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲であるタイロン・ウッズが不調の時には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンは、チャンスでもっと打っていきたい」と発言している。

2009年
春季キャンプで打撃改造を行う。昨年主砲のウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待される。4番に座る可能性もあったが開幕はいつもの5番でスタートし、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切る。4月25日の対巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。その後も持ち味の勝負強いバッティングも健在ながら本塁打も量産中。
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