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中日ドラゴンズファンのみなさんこんにちは!このサイトではプロ野球球団である中日ドラゴンズの選手のプロフィールや実績などを紹介しています。
球団の簡単な概要なんかも掲載しています。
岩瀬仁紀について
岩瀬仁紀(いわせひとき)
1974年11月10日生まれ。
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手 (投手)。

岩瀬仁紀人物像
中日入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。初めて最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両方を受賞した投手でもある。彼を初めとする中継ぎ投手の活躍は、旧来評価の低かった中継ぎ投手の地位を向上させ、オールスターゲームファン投票における中継ぎ部門の創設に繋がったとの見方もある。
あだ名は「満太朗」(元同僚の野口茂樹投手が命名。由来は不明)。また公私ともに仲の良い川上憲伸投手は、岩瀬仁紀の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる。
後述の独特のスライダーの投球法は、キレは増すものの体への負担は非常に大きくなってしまうが、入団以来9年連続で50試合以上登板を記録し続けていて、この間に致命的な故障もなく防御率も常に高いレベルで維持しており、酷使され活躍できなくなっていった過去の多くの投手とは対照的である。このように現在まで長年活躍できているのは、1日のうち数時間費やすほどの丹念な体のケアと自己管理によるものであり、自らの今後の活躍によっては日本プロ野球初の 1000試合登板達成や生涯防御率1点台の可能性もある。
岩瀬仁紀プロ入り前
西尾東高では、我流の投法ながら、県大会でノーヒットノーランを記録。最後の夏は地方大会4回戦で敗退。「次(5回戦の相手)が甲子園の常連の東邦だったので、もう1回勝ちたかった」とのこと。なお、彼が所謂強豪校へ進学しなかったのは、野球をやりつつも共学の楽しみも味わいたかったため。 愛知大学野球部時代は外野手兼任。通算安打でリーグ歴代2位の124本を記録(1位は元中日の神野純一)し、打者として注目された事もあった。主に中継ぎ・抑えでの登板が多いため打席に立つことは少ないが、たまに立った打席では気を抜いた相手投手から痛烈なヒットを打つこともある。
岩瀬仁紀プロ入り後
1998年
NTT東海よりドラフト2位で中日ドラゴンズを逆指名。同年の1位は福留孝介、3位は小笠原孝、4位は蔵本英智(現登録名:英智)とかなり粒揃いだった。また、有力社会人選手の獲得競争に出遅れていた阪神タイガースが猛アタックを仕掛け、ドラフト1位で逆指名を得ようとしたが失敗に終わる。
1999年
ルーキーイヤーから左のセットアッパーを務め、持ち前のコントロールとスライダーを武器に落合英二・李尚勲(サムソン・リー)・宣銅烈らと共に活躍し、この年の優勝に貢献する。最優秀中継ぎ投手も受賞する。数字上も防御率1.57、中継ぎながら10勝と上々の数字を残すものの、同期の新人に20勝投手となった巨人の上原浩治がおり、新人王争いは上原に軍配が上がった。
2000年
10月8日の対広島戦で1試合のみ先発経験あり(7回7安打1失点で勝ち投手)。元々先発を希望していたこともあり、当時の星野仙一監督がテストも兼ねて起用した。
2004年
落合博満新監督より新ストッパーに指名されるも、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。なんとか開幕に間に合わせたが、開幕直後は評論家から「岩瀬らしい軸足の蹴り上げがない」などと厳しい意見を浴び、前半戦は不調が続き苦労した。それでも2勝3敗22セーブの成績で5年ぶりの優勝に貢献する。
2005年
10月1日、ナゴヤドームで行われた広島戦において46セーブ目を達成し元横浜ベイスターズ・佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新。この年は60試合に登板しながら被本塁打0だった。
2006年
4月4日の横浜戦(横浜スタジアム)で、9回裏に多村仁に同点となる2ランホームランを打たれ救援失敗(ただしこの試合はそのまま引き分けに終わったので敗戦投手とはならず)、2004年9月25日の横浜戦(横浜スタジアム)の村田修一を最後に許していなかった本塁打を打たれてしまい、これにより被本塁打 0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。同年7月16日の阪神戦にて9回表1死3塁から初球をセンターへ打ち上げ犠飛を記録。同年7月30日の対巨人戦でプロ入り通算100セーブを達成。同年10月8日の横浜戦にて日本プロ野球界初の2年連続40セーブを達成した。そしてマジック1で臨んだ2日後の 10月10日巨人戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2イニングを無失点に抑え12回表にチームが勝ち越したため、岩瀬は悲願だった胴上げ投手となり、チームはこの日2年ぶりのリーグ優勝を決めた。
2007年
4月6日、対横浜戦において郭源治の持つ中日球団の個人通算セーブ記録を更新する117セーブ目を挙げた。同年7月7日、通算500試合登板を達成(9年目での達成は史上8人目)。同年9月8日、元大洋ホエールズの秋山登に並ぶ、9年連続50試合登板のプロ野球タイ記録を樹立。翌日の9月9日には、史上6 人目の150セーブを達成した。同年9月19日、対ヤクルト戦において日本プロ野球界初の3年連続40セーブを達成した。しかしこの年は、5月2日の対巨人戦で延長10回からマウンドに立ち、延長11回に2アウトを取った直後に連打され自責点2で敗戦、巨人の通算5,000勝達成の引き立て役にされ、7月 16日の対ヤクルト戦で自身初の1イニング中(記録としては2/3回)被安打6、自己最多となる自責点5で敗戦投手となり、1試合の救援成功をはさんだ後の7月24日の対阪神戦でも自責点3で敗戦投手となるなど、シーズン中盤に極度の不振に陥った。その後は安定感を取り戻したものの、ストレートの球速が 140km/hを下回るケースや低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであった(年度別成績の比較で入団3、 6年目の成績が低調であり、9年目の今シーズンも同様であることから、「岩瀬仁紀の不調は3年周期」と評されることがある)。
クライマックスシリーズでは、対阪神の第1ステージ第2戦から対巨人の第2ステージ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投を抑えきり、日本シリーズへと進出する。3勝1敗で迎えた日本シリーズ第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介からバトンを受け9回に登板。三者凡退に抑えてチーム53年ぶり日本一の胴上げ投手となり、山井とともに史上初の継投による完全試合を達成した(ただし日本では完投が条件の個人記録となっている)。
2008年
出身地の愛知県西尾市の「ふるさと大使」に就任。主に西尾市でのイベントの告知ポスターに登場することが決定。6月14日、オリックス・バファローズ戦の 9回裏に1点リードの状況で登板したが、アレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラホームランを被弾し、負け投手となった。北京オリンピックの野球日本代表選手に選出。
岩瀬仁紀のプレースタイル
投球の5割以上を占めるスライダーが最大の武器であり、特に左打者には有効で被打率は低い。持ち球は数種類のスライダーに加え、シュート、シンカー、 SFFなど。かつては150km/h近い速球とスライダーを中心に投球を組み立てる典型的な速球派投手であったが、近年はクセのある直球と鋭くキレる変化球を抜群のコントロールで左右に投げ分けて揺さぶる技巧派スタイルに投球を変化させている。
細身ながら淡々と無表情のまま打者を打ち取っていき、また背番号が「13」(タロットカードに於ける死神は13番に位置する)で、決め球の打者の手元で鋭く大きく曲がるスライダー(普通の投手は手首を外側にひねって曲げるが、彼の場合は体も逆側にひねるため、よりキレが増す)が鎌を思わせることなどから、ネット上では岩瀬仁紀は死神とも呼ばれ、岩瀬仁紀のスライダーは(死神の)鎌とも呼ばれる。
岩瀬仁紀のエピソード
中学時代になぜか茶摘みをしている際に脱臼した事がある(地元の愛知県西尾市は日本一の碾茶=抹茶の原料=の産地で、地元の中学生は学校行事で茶摘体験をする)。
愛知大学時代、前述のように通算安打は神野に一歩及ばなかったが、「あの時もう一本打って、(通算安打記録が)並んでいたら、野手に未練があったし、こだわっていただろう」と語っている。
彼の活躍の要因の一つに、スリークォーター気味の個性的なそのフォームが挙げられる(一般にアーム式と呼ばれる)。しかしこのフォームは専門家からみて理に適ったフォームとは言い難いらしく、今中慎二、川崎憲次郎といった、肩を壊した経験のある一流投手も「入団当初岩瀬仁紀のフォームを見て、絶対肩を壊すだろうなと思った」(今中談)らしい。また入団した直後の春のキャンプではストライクがまったく入らず、当時の山田久志投手コーチは本気でアンダースローへ転向させようとしたが、岩瀬仁紀は自分の信ずるまま投げ続けたという。そして現在に至り、肩を壊すどころかその驚異的な登板数と防御率を見ると、そのフォームは彼にとってまさに「理に適った」フォームだったのだろうと考えられる。
2004年9月4日の広島戦の9回表、控え野手がいなくなったため落合英二の打順で代打出場する予定だった(実際は落合まで打順が回らず試合終了)。
愛車との縁は悲惨なものがある。東海豪雨による大水害でナゴヤドームの駐車場に停めてあった愛車が水没したほか、タイヤだけが盗まれたり、車上荒らしに遭うなど、エピソードには事欠かない。
チームメイトの山本昌と山崎武司(現楽天)が主催するラジコンレース「山々杯」に数回参加している。野口茂樹と共に参加したこともあった。
学生時代、ナゴヤ球場で試合前に行われるスピードガンコンテストに参加し、136km/hを記録。予定では覆面を被って140km/hを出そうとしたが、事前に練習をさせてもらえず、いきなり全力で投げたために肩を痛め、社会人の最初の何ヶ月かを棒に振ったらしい。
マウンドでは無表情で黙々とストライクを重ねていく彼も、ひとたびマウンドを降りるとベンチ裏で「実はビビッていたんだ」と口にするなど人間臭い一面も見せる。また、祝勝旅行の際には必ずといっていいほど珍エピソードを生むなど、素顔の彼は自然体であることが伺える。さらに酒を飲ませると人格が緩くなるとか。「マウンド外の岩瀬仁紀にはオーラがない」はファンの間では半ば常識となっており、同僚の川上憲伸とタクシーに同乗した際、運転手の問いかけに川上が「こっち(=岩瀬仁紀)はマネージャー」と答えたところまったく疑われなかったと岩瀬仁紀自身も語っている。 現在は抑えをつとめる岩瀬だが、2006年からオープン戦の本拠地開幕投手をつとめており、1イニング程度を投げる。公式戦でも見られない投手起用が実現できるのもオープン戦ならではと言える。
2006年の優勝決定試合のとき、12回表の打席で送りバントを失敗したところ川上に「どうしよ~失敗しちゃったよ~」と語り、その回に味方が6点を取ったときには「(逆転されたら)どうしよ~」と弱々しく語っていた。
2007年、中日スポーツ一面にて「洋服は川上憲伸に買ってきてもらっている」と発言。事実、同年10月21日、クライマックスシリーズ優勝特別番組にて、川上と同じブランドの洋服を着用していたところを見ると、公私共に親密のようだ。
日本一を決定した2007年の日本シリーズ第5戦の登板時は、完全試合が継続中で最小点差の1点リード、なおかつ53年ぶりの日本一が地元ナゴヤドームで決められるかが懸かっていた。それまで数々の修羅場を潜ってきたとはいえ、さすがにこのような大記録がかかっている中での登板は例が無く、「足が震えた。今までで一番緊張した」と語っている。また後に落合監督は、完全試合という記録と引き換えにしてまで岩瀬仁紀を登板させた理由として、先発の山井大介の状態と、古傷の肩に不安があるため将来の野球人生への影響を考えて勝負に徹して継投した事に加えて、岩瀬仁紀投手が球界を代表する絶対的な抑えであり、また長年チームに貢献してきた事への功労も称えてのものだったと述べている。また、「山井が万全であっても岩瀬仁紀に代えていたかも知れないですね」とも語っている。
岩瀬仁紀(いわせひとき)
1974年11月10日生まれ。
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手 (投手)。

岩瀬仁紀人物像
中日入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。初めて最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両方を受賞した投手でもある。彼を初めとする中継ぎ投手の活躍は、旧来評価の低かった中継ぎ投手の地位を向上させ、オールスターゲームファン投票における中継ぎ部門の創設に繋がったとの見方もある。
あだ名は「満太朗」(元同僚の野口茂樹投手が命名。由来は不明)。また公私ともに仲の良い川上憲伸投手は、岩瀬仁紀の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる。
後述の独特のスライダーの投球法は、キレは増すものの体への負担は非常に大きくなってしまうが、入団以来9年連続で50試合以上登板を記録し続けていて、この間に致命的な故障もなく防御率も常に高いレベルで維持しており、酷使され活躍できなくなっていった過去の多くの投手とは対照的である。このように現在まで長年活躍できているのは、1日のうち数時間費やすほどの丹念な体のケアと自己管理によるものであり、自らの今後の活躍によっては日本プロ野球初の 1000試合登板達成や生涯防御率1点台の可能性もある。
岩瀬仁紀プロ入り前
西尾東高では、我流の投法ながら、県大会でノーヒットノーランを記録。最後の夏は地方大会4回戦で敗退。「次(5回戦の相手)が甲子園の常連の東邦だったので、もう1回勝ちたかった」とのこと。なお、彼が所謂強豪校へ進学しなかったのは、野球をやりつつも共学の楽しみも味わいたかったため。 愛知大学野球部時代は外野手兼任。通算安打でリーグ歴代2位の124本を記録(1位は元中日の神野純一)し、打者として注目された事もあった。主に中継ぎ・抑えでの登板が多いため打席に立つことは少ないが、たまに立った打席では気を抜いた相手投手から痛烈なヒットを打つこともある。
岩瀬仁紀プロ入り後
1998年
NTT東海よりドラフト2位で中日ドラゴンズを逆指名。同年の1位は福留孝介、3位は小笠原孝、4位は蔵本英智(現登録名:英智)とかなり粒揃いだった。また、有力社会人選手の獲得競争に出遅れていた阪神タイガースが猛アタックを仕掛け、ドラフト1位で逆指名を得ようとしたが失敗に終わる。
1999年
ルーキーイヤーから左のセットアッパーを務め、持ち前のコントロールとスライダーを武器に落合英二・李尚勲(サムソン・リー)・宣銅烈らと共に活躍し、この年の優勝に貢献する。最優秀中継ぎ投手も受賞する。数字上も防御率1.57、中継ぎながら10勝と上々の数字を残すものの、同期の新人に20勝投手となった巨人の上原浩治がおり、新人王争いは上原に軍配が上がった。
2000年
10月8日の対広島戦で1試合のみ先発経験あり(7回7安打1失点で勝ち投手)。元々先発を希望していたこともあり、当時の星野仙一監督がテストも兼ねて起用した。
2004年
落合博満新監督より新ストッパーに指名されるも、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。なんとか開幕に間に合わせたが、開幕直後は評論家から「岩瀬らしい軸足の蹴り上げがない」などと厳しい意見を浴び、前半戦は不調が続き苦労した。それでも2勝3敗22セーブの成績で5年ぶりの優勝に貢献する。
2005年
10月1日、ナゴヤドームで行われた広島戦において46セーブ目を達成し元横浜ベイスターズ・佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新。この年は60試合に登板しながら被本塁打0だった。
2006年
4月4日の横浜戦(横浜スタジアム)で、9回裏に多村仁に同点となる2ランホームランを打たれ救援失敗(ただしこの試合はそのまま引き分けに終わったので敗戦投手とはならず)、2004年9月25日の横浜戦(横浜スタジアム)の村田修一を最後に許していなかった本塁打を打たれてしまい、これにより被本塁打 0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。同年7月16日の阪神戦にて9回表1死3塁から初球をセンターへ打ち上げ犠飛を記録。同年7月30日の対巨人戦でプロ入り通算100セーブを達成。同年10月8日の横浜戦にて日本プロ野球界初の2年連続40セーブを達成した。そしてマジック1で臨んだ2日後の 10月10日巨人戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2イニングを無失点に抑え12回表にチームが勝ち越したため、岩瀬は悲願だった胴上げ投手となり、チームはこの日2年ぶりのリーグ優勝を決めた。
2007年
4月6日、対横浜戦において郭源治の持つ中日球団の個人通算セーブ記録を更新する117セーブ目を挙げた。同年7月7日、通算500試合登板を達成(9年目での達成は史上8人目)。同年9月8日、元大洋ホエールズの秋山登に並ぶ、9年連続50試合登板のプロ野球タイ記録を樹立。翌日の9月9日には、史上6 人目の150セーブを達成した。同年9月19日、対ヤクルト戦において日本プロ野球界初の3年連続40セーブを達成した。しかしこの年は、5月2日の対巨人戦で延長10回からマウンドに立ち、延長11回に2アウトを取った直後に連打され自責点2で敗戦、巨人の通算5,000勝達成の引き立て役にされ、7月 16日の対ヤクルト戦で自身初の1イニング中(記録としては2/3回)被安打6、自己最多となる自責点5で敗戦投手となり、1試合の救援成功をはさんだ後の7月24日の対阪神戦でも自責点3で敗戦投手となるなど、シーズン中盤に極度の不振に陥った。その後は安定感を取り戻したものの、ストレートの球速が 140km/hを下回るケースや低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであった(年度別成績の比較で入団3、 6年目の成績が低調であり、9年目の今シーズンも同様であることから、「岩瀬仁紀の不調は3年周期」と評されることがある)。
クライマックスシリーズでは、対阪神の第1ステージ第2戦から対巨人の第2ステージ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投を抑えきり、日本シリーズへと進出する。3勝1敗で迎えた日本シリーズ第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介からバトンを受け9回に登板。三者凡退に抑えてチーム53年ぶり日本一の胴上げ投手となり、山井とともに史上初の継投による完全試合を達成した(ただし日本では完投が条件の個人記録となっている)。
2008年
出身地の愛知県西尾市の「ふるさと大使」に就任。主に西尾市でのイベントの告知ポスターに登場することが決定。6月14日、オリックス・バファローズ戦の 9回裏に1点リードの状況で登板したが、アレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラホームランを被弾し、負け投手となった。北京オリンピックの野球日本代表選手に選出。
岩瀬仁紀のプレースタイル
投球の5割以上を占めるスライダーが最大の武器であり、特に左打者には有効で被打率は低い。持ち球は数種類のスライダーに加え、シュート、シンカー、 SFFなど。かつては150km/h近い速球とスライダーを中心に投球を組み立てる典型的な速球派投手であったが、近年はクセのある直球と鋭くキレる変化球を抜群のコントロールで左右に投げ分けて揺さぶる技巧派スタイルに投球を変化させている。
細身ながら淡々と無表情のまま打者を打ち取っていき、また背番号が「13」(タロットカードに於ける死神は13番に位置する)で、決め球の打者の手元で鋭く大きく曲がるスライダー(普通の投手は手首を外側にひねって曲げるが、彼の場合は体も逆側にひねるため、よりキレが増す)が鎌を思わせることなどから、ネット上では岩瀬仁紀は死神とも呼ばれ、岩瀬仁紀のスライダーは(死神の)鎌とも呼ばれる。
岩瀬仁紀のエピソード
中学時代になぜか茶摘みをしている際に脱臼した事がある(地元の愛知県西尾市は日本一の碾茶=抹茶の原料=の産地で、地元の中学生は学校行事で茶摘体験をする)。
愛知大学時代、前述のように通算安打は神野に一歩及ばなかったが、「あの時もう一本打って、(通算安打記録が)並んでいたら、野手に未練があったし、こだわっていただろう」と語っている。
彼の活躍の要因の一つに、スリークォーター気味の個性的なそのフォームが挙げられる(一般にアーム式と呼ばれる)。しかしこのフォームは専門家からみて理に適ったフォームとは言い難いらしく、今中慎二、川崎憲次郎といった、肩を壊した経験のある一流投手も「入団当初岩瀬仁紀のフォームを見て、絶対肩を壊すだろうなと思った」(今中談)らしい。また入団した直後の春のキャンプではストライクがまったく入らず、当時の山田久志投手コーチは本気でアンダースローへ転向させようとしたが、岩瀬仁紀は自分の信ずるまま投げ続けたという。そして現在に至り、肩を壊すどころかその驚異的な登板数と防御率を見ると、そのフォームは彼にとってまさに「理に適った」フォームだったのだろうと考えられる。
2004年9月4日の広島戦の9回表、控え野手がいなくなったため落合英二の打順で代打出場する予定だった(実際は落合まで打順が回らず試合終了)。
愛車との縁は悲惨なものがある。東海豪雨による大水害でナゴヤドームの駐車場に停めてあった愛車が水没したほか、タイヤだけが盗まれたり、車上荒らしに遭うなど、エピソードには事欠かない。
チームメイトの山本昌と山崎武司(現楽天)が主催するラジコンレース「山々杯」に数回参加している。野口茂樹と共に参加したこともあった。
学生時代、ナゴヤ球場で試合前に行われるスピードガンコンテストに参加し、136km/hを記録。予定では覆面を被って140km/hを出そうとしたが、事前に練習をさせてもらえず、いきなり全力で投げたために肩を痛め、社会人の最初の何ヶ月かを棒に振ったらしい。
マウンドでは無表情で黙々とストライクを重ねていく彼も、ひとたびマウンドを降りるとベンチ裏で「実はビビッていたんだ」と口にするなど人間臭い一面も見せる。また、祝勝旅行の際には必ずといっていいほど珍エピソードを生むなど、素顔の彼は自然体であることが伺える。さらに酒を飲ませると人格が緩くなるとか。「マウンド外の岩瀬仁紀にはオーラがない」はファンの間では半ば常識となっており、同僚の川上憲伸とタクシーに同乗した際、運転手の問いかけに川上が「こっち(=岩瀬仁紀)はマネージャー」と答えたところまったく疑われなかったと岩瀬仁紀自身も語っている。 現在は抑えをつとめる岩瀬だが、2006年からオープン戦の本拠地開幕投手をつとめており、1イニング程度を投げる。公式戦でも見られない投手起用が実現できるのもオープン戦ならではと言える。
2006年の優勝決定試合のとき、12回表の打席で送りバントを失敗したところ川上に「どうしよ~失敗しちゃったよ~」と語り、その回に味方が6点を取ったときには「(逆転されたら)どうしよ~」と弱々しく語っていた。
2007年、中日スポーツ一面にて「洋服は川上憲伸に買ってきてもらっている」と発言。事実、同年10月21日、クライマックスシリーズ優勝特別番組にて、川上と同じブランドの洋服を着用していたところを見ると、公私共に親密のようだ。
日本一を決定した2007年の日本シリーズ第5戦の登板時は、完全試合が継続中で最小点差の1点リード、なおかつ53年ぶりの日本一が地元ナゴヤドームで決められるかが懸かっていた。それまで数々の修羅場を潜ってきたとはいえ、さすがにこのような大記録がかかっている中での登板は例が無く、「足が震えた。今までで一番緊張した」と語っている。また後に落合監督は、完全試合という記録と引き換えにしてまで岩瀬仁紀を登板させた理由として、先発の山井大介の状態と、古傷の肩に不安があるため将来の野球人生への影響を考えて勝負に徹して継投した事に加えて、岩瀬仁紀投手が球界を代表する絶対的な抑えであり、また長年チームに貢献してきた事への功労も称えてのものだったと述べている。また、「山井が万全であっても岩瀬仁紀に代えていたかも知れないですね」とも語っている。
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