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中日ドラゴンズファンのみなさんこんにちは!このサイトではプロ野球球団である中日ドラゴンズの選手のプロフィールや実績などを紹介しています。
球団の簡単な概要なんかも掲載しています。
森野将彦について
森野将彦(もりのまさひこ)
1978年7月28日生まれ。
神奈川県横浜市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手である。
ポジションは内野手(主にサード)だが、最近は外野(主にセンター)をつとめる。背番号は31番。

森野将彦プレースタイル
高い打撃力で打線の主軸を打ちながら、穴の空いたポジションを堅実に穴埋めしており、「全く新しいタイプのユーティリティプレーヤー」と形容されることもある。
走塁の技術にはさほど目立った上手さはないものの、もともと剛速球にも力負けしない打撃力を武器に台頭、チーム事情から内野全ポジションをそこそこに守れるという選手であった。落合監督就任後のキャンプで鍛えられた守備力は年を経るごとに向上し、現在ではバッテリー以外のポジションを標準程度の守備力で守ることができる。
2007年、中村紀洋の加入で守る機会が増加したレフトの守備もまだ若干打球判断に不安があるが、守備範囲は標準で無難にこなす(両翼を守る選手としては十分に広い)。肩は強肩ではないが内外共に安定したスローイングができる。そのため、サードかレフトで先発出場した後、渡邉博幸やタイロン・ウッズに代わりファーストの守備固めに入っていた。この年は内外野すべてのポジションに就いた。
阪神戦や、ヤクルト戦に強いと言われるが、最近は巨人戦で目立った活躍をすることも多い。左投手・速球派投手にも強い。高めのインコースに強く、また左方向にホームランを打つ技術も持っている。
通算本塁打の割合に3ランが多い(特に2007年シーズンは、レギュラーシーズンは18本中8本。ポストシーズンでも2本中1本)ことから「ミスター3ラン」の異名を持つ。ちなみに、2007年までの通算55本中19本が3ラン。
森野将彦プロ入り前
東海大相模高では1年目よりレギュラーとして活躍し、2年の春の選抜に出場。3年時には主砲として、全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝で横浜高校と対戦したが、3四球の敬遠と勝負を避けられ、チームは惜敗。しかし唯一相手が勝負にきた打席では本塁打を打ち、意地を見せている。また、高校通算38本塁打の記録を持つ。
森野将彦プロ入り後
1996年~
1996年将来の4番、ポスト立浪和義としてドラフト2位で中日に入団。
ルーキーイヤーの1997年8月29日ナゴヤドームでの対ヤクルトスワローズ戦8番・ショートで初先発出場し、初ホームランを放った(高卒新人本塁打は中日では1988年の立浪、セ・リーグでは1993年の読売ジャイアンツ・松井秀喜以来)。
2002年からスタメンの機会が増える。本来は内野手だが、2004年はファーストとレフトで出場(同時に左の代打)。
2005年
井上一樹、大西崇之、英智らとレフトのポジション争いに加わった。また立浪に代わってサード(まれにファースト)としても出場することで出場機会を増やした。
2006年
立浪とのレギュラーをキャンプから争う。しかし、オープン戦で死球を受け右手小指を骨折。サードの座を立浪に譲る。交流戦半ばに復帰し、荒木雅博の故障のためセカンドを守り、1番を打つ。プロ初の満塁ホームランとプロ初のサヨナラヒットを同じ日に放つなど活躍した。荒木の復帰後、立浪からサードのポジションを奪い5番、6番を打つ。勝負強い打撃で一時打率3割、得点圏打率4割をマークする。9月以降は疲れからか打率を下げたが、初めて規定打席に到達し、打率.280、初の2桁本塁打を打って中日のリーグ優勝に貢献した。
2006年オフに、中日はFA宣言した北海道日本ハムファイターズの小笠原道大の獲得に乗り出すと見られていた。もし獲得が実現すれば森野将彦は外野にコンバートされる可能性が大きいと言われていたが、落合監督は「サードには森野将彦がいる。猛練習で立浪からレギュラーを奪ったんだ」と語り、小笠原の獲得には動かないことを表明した。だがその後オリックス・バファローズを自由契約になった中村紀洋を獲得し、結局森野はレフトへコンバートされた。
2007年
中村紀洋の加入に伴い、左翼手として開幕戦を迎えた。その後は荒木の戦線離脱もあり、前半戦はセカンドでも起用される。この年はオールスターに初出場を果たし優秀選手賞に選ばれた。後半戦以降は福留孝介の離脱もあり、センターやライトとしての出場も増え、主に5番か3番を任された。2年連続で規定打席に到達し、更に自己最高の打率.294、18本塁打の成績を残し、日本シリーズでも4打点を上げて優秀選手賞に選ばれた。
2008年
春季キャンプで左手甲を骨折し、途中で離脱。開幕スタメンが絶望視されたが脅威の回復力により、センターとして開幕戦を迎えた。開幕当初は7番での起用だったが、徐々に成績を上げて6番での起用を経て3番に戻る。5月14日のヤクルト戦で左ふくらはぎ肉離れで戦線を離脱したが7月5日に復帰を果たした。北京オリンピック終了後は井端弘和が怪我で戦線離脱すると1番を、主砲・タイロン・ウッズが不調の際には4番も経験するなど、このシーズンは「2番」と「8・9番」以外の打順全てを経験している。また規定打席にも到達し、自信初の打率3割をマークした。
森野将彦のエピソード
2006年9月16日の山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神戦で、4回の守備中にライン際の打球をエラーしてしまい、結果的に完全試合はならなかった。本人も気に病んでいたが、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそ(ノーヒットノーランの)記録が達成できた」と発言した(捕球体勢が不十分であり、仮に送球していたら打者が足の速い赤星であったことから、「内野安打になって記録が途絶えた」とする意見もある)。また、山本はドラゴンズ投手内では「森野将彦がエラーで出したランナーは点にならない」との法則があることを明かしている。
他人の都合で背番号を振り回されることがファンの間で語り草になったこともある。1999年は李鍾範との入れ替え、2001年に波留敏夫の移籍により8番から16番になった時は高校の先輩で読売ジャイアンツ監督の原辰徳に「倍以上頑張れ」と叱咤激励された。2004年は「10番台は野手っぽくない」という落合博満監督の意向による変更、2006年はルーキー平田良介の入団及び平田本人の希望に伴う変更である。このとき31番にしたのは掛布雅之に憧れていたからでもある。
落合監督からは特に素質をかわれている。就任後、初のリーグ優勝を決めた2004年の秋季キャンプで守備練習をしていた中、ノックの本数を間違えた森野将彦はそれを笑って訂正した。それを見た落合監督は珍しく激怒し、他の全選手・コーチが見ている中、森野将彦だけを守備に就かせ厳しいノックの嵐を浴びせた。それまでチームの中で甘え向上心に欠けていた姿勢、非凡な打撃センスを持ちながら、スタミナ不足などの理由でレギュラーになれなかった弱さを改めて認識することになった。他にもグラウンドでへばっている中バケツで水を掛けられ叩き起されるなどの特訓が続けられた結果、これらの厳しい練習がきっかけとなり、体力的にも精神的にも鍛え直され、その後大きく飛躍することができた。
2007年のカレンダーには槍と書かれていた。優勝後のサンドラの取材で今の気持ちはと聞かれ「槍っす」と答え度肝を抜いた。元々は井上一樹が2006年に作成した選手別のポスターに森野将彦は「槍」と描かれていたものである。
また、この選手別ポスターの文字が「槍」になったのは、真っ直ぐしか打てないからだと井上と立浪が語っていた(勿論実際には変化球も打てるが、インサイドの直球に強いのも事実である)。
内外野全てのポジションを守れることから、「宇野のゴールデングラブ賞」、「タブラン(田淵幸一のランニングホームラン)」と滅多にないことの例えとして森野将彦には「森野将彦のベストナイン」、「森野将彦のゴールデングラブ賞」と言う言葉が出来てしまっているが、前述の2つと違う点は複数のポジションをこなすことのできるユーティリティー性から投票が各ポジションに割れてしまうからである。
北京オリンピックアジア予選では背番号「31」を渡辺俊介に譲り、自らは「29」をつけた。この番号にした理由は「(当時の)年齢だから」と語っている。
高校時代に、羞恥心の上地雄輔と対戦したことがあるが、見事に本塁打を放った。上地は森野将彦のことを「ただ者ではない」と思っていた。
読売ジャイアンツの捕手であった原俊介は東海大相模高校野球部の1学年先輩であり、横浜ベイスターズ元投手の稲嶺茂夫、柔道シドニーオリンピック金メダリストの井上康生とは東海大相模高校の同級生であり、親交も深い。
中日のマスコット・ドアラとは特に仲が良く、公式ブログでもその光景が見られる。顔もどことなくドアラに似ていると言われる(ファンのみならず、コーチの川相昌弘も指摘している)。そのこともあって2008年に発刊されたドアラの著作「ドアラのひみつ」には森野将彦のインタビュー記事が掲載されており、ドアラに対しての思いなどを語っている。
本人は小学生の頃横浜大洋ホエールズファンだったと語っているが、憧れていた選手は阪神タイガースの掛布雅之(森野の背番号31は掛布と同じ)。
森野将彦(もりのまさひこ)
1978年7月28日生まれ。
神奈川県横浜市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手である。
ポジションは内野手(主にサード)だが、最近は外野(主にセンター)をつとめる。背番号は31番。

森野将彦プレースタイル
高い打撃力で打線の主軸を打ちながら、穴の空いたポジションを堅実に穴埋めしており、「全く新しいタイプのユーティリティプレーヤー」と形容されることもある。
走塁の技術にはさほど目立った上手さはないものの、もともと剛速球にも力負けしない打撃力を武器に台頭、チーム事情から内野全ポジションをそこそこに守れるという選手であった。落合監督就任後のキャンプで鍛えられた守備力は年を経るごとに向上し、現在ではバッテリー以外のポジションを標準程度の守備力で守ることができる。
2007年、中村紀洋の加入で守る機会が増加したレフトの守備もまだ若干打球判断に不安があるが、守備範囲は標準で無難にこなす(両翼を守る選手としては十分に広い)。肩は強肩ではないが内外共に安定したスローイングができる。そのため、サードかレフトで先発出場した後、渡邉博幸やタイロン・ウッズに代わりファーストの守備固めに入っていた。この年は内外野すべてのポジションに就いた。
阪神戦や、ヤクルト戦に強いと言われるが、最近は巨人戦で目立った活躍をすることも多い。左投手・速球派投手にも強い。高めのインコースに強く、また左方向にホームランを打つ技術も持っている。
通算本塁打の割合に3ランが多い(特に2007年シーズンは、レギュラーシーズンは18本中8本。ポストシーズンでも2本中1本)ことから「ミスター3ラン」の異名を持つ。ちなみに、2007年までの通算55本中19本が3ラン。
森野将彦プロ入り前
東海大相模高では1年目よりレギュラーとして活躍し、2年の春の選抜に出場。3年時には主砲として、全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝で横浜高校と対戦したが、3四球の敬遠と勝負を避けられ、チームは惜敗。しかし唯一相手が勝負にきた打席では本塁打を打ち、意地を見せている。また、高校通算38本塁打の記録を持つ。
森野将彦プロ入り後
1996年~
1996年将来の4番、ポスト立浪和義としてドラフト2位で中日に入団。
ルーキーイヤーの1997年8月29日ナゴヤドームでの対ヤクルトスワローズ戦8番・ショートで初先発出場し、初ホームランを放った(高卒新人本塁打は中日では1988年の立浪、セ・リーグでは1993年の読売ジャイアンツ・松井秀喜以来)。
2002年からスタメンの機会が増える。本来は内野手だが、2004年はファーストとレフトで出場(同時に左の代打)。
2005年
井上一樹、大西崇之、英智らとレフトのポジション争いに加わった。また立浪に代わってサード(まれにファースト)としても出場することで出場機会を増やした。
2006年
立浪とのレギュラーをキャンプから争う。しかし、オープン戦で死球を受け右手小指を骨折。サードの座を立浪に譲る。交流戦半ばに復帰し、荒木雅博の故障のためセカンドを守り、1番を打つ。プロ初の満塁ホームランとプロ初のサヨナラヒットを同じ日に放つなど活躍した。荒木の復帰後、立浪からサードのポジションを奪い5番、6番を打つ。勝負強い打撃で一時打率3割、得点圏打率4割をマークする。9月以降は疲れからか打率を下げたが、初めて規定打席に到達し、打率.280、初の2桁本塁打を打って中日のリーグ優勝に貢献した。
2006年オフに、中日はFA宣言した北海道日本ハムファイターズの小笠原道大の獲得に乗り出すと見られていた。もし獲得が実現すれば森野将彦は外野にコンバートされる可能性が大きいと言われていたが、落合監督は「サードには森野将彦がいる。猛練習で立浪からレギュラーを奪ったんだ」と語り、小笠原の獲得には動かないことを表明した。だがその後オリックス・バファローズを自由契約になった中村紀洋を獲得し、結局森野はレフトへコンバートされた。
2007年
中村紀洋の加入に伴い、左翼手として開幕戦を迎えた。その後は荒木の戦線離脱もあり、前半戦はセカンドでも起用される。この年はオールスターに初出場を果たし優秀選手賞に選ばれた。後半戦以降は福留孝介の離脱もあり、センターやライトとしての出場も増え、主に5番か3番を任された。2年連続で規定打席に到達し、更に自己最高の打率.294、18本塁打の成績を残し、日本シリーズでも4打点を上げて優秀選手賞に選ばれた。
2008年
春季キャンプで左手甲を骨折し、途中で離脱。開幕スタメンが絶望視されたが脅威の回復力により、センターとして開幕戦を迎えた。開幕当初は7番での起用だったが、徐々に成績を上げて6番での起用を経て3番に戻る。5月14日のヤクルト戦で左ふくらはぎ肉離れで戦線を離脱したが7月5日に復帰を果たした。北京オリンピック終了後は井端弘和が怪我で戦線離脱すると1番を、主砲・タイロン・ウッズが不調の際には4番も経験するなど、このシーズンは「2番」と「8・9番」以外の打順全てを経験している。また規定打席にも到達し、自信初の打率3割をマークした。
森野将彦のエピソード
2006年9月16日の山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神戦で、4回の守備中にライン際の打球をエラーしてしまい、結果的に完全試合はならなかった。本人も気に病んでいたが、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそ(ノーヒットノーランの)記録が達成できた」と発言した(捕球体勢が不十分であり、仮に送球していたら打者が足の速い赤星であったことから、「内野安打になって記録が途絶えた」とする意見もある)。また、山本はドラゴンズ投手内では「森野将彦がエラーで出したランナーは点にならない」との法則があることを明かしている。
他人の都合で背番号を振り回されることがファンの間で語り草になったこともある。1999年は李鍾範との入れ替え、2001年に波留敏夫の移籍により8番から16番になった時は高校の先輩で読売ジャイアンツ監督の原辰徳に「倍以上頑張れ」と叱咤激励された。2004年は「10番台は野手っぽくない」という落合博満監督の意向による変更、2006年はルーキー平田良介の入団及び平田本人の希望に伴う変更である。このとき31番にしたのは掛布雅之に憧れていたからでもある。
落合監督からは特に素質をかわれている。就任後、初のリーグ優勝を決めた2004年の秋季キャンプで守備練習をしていた中、ノックの本数を間違えた森野将彦はそれを笑って訂正した。それを見た落合監督は珍しく激怒し、他の全選手・コーチが見ている中、森野将彦だけを守備に就かせ厳しいノックの嵐を浴びせた。それまでチームの中で甘え向上心に欠けていた姿勢、非凡な打撃センスを持ちながら、スタミナ不足などの理由でレギュラーになれなかった弱さを改めて認識することになった。他にもグラウンドでへばっている中バケツで水を掛けられ叩き起されるなどの特訓が続けられた結果、これらの厳しい練習がきっかけとなり、体力的にも精神的にも鍛え直され、その後大きく飛躍することができた。
2007年のカレンダーには槍と書かれていた。優勝後のサンドラの取材で今の気持ちはと聞かれ「槍っす」と答え度肝を抜いた。元々は井上一樹が2006年に作成した選手別のポスターに森野将彦は「槍」と描かれていたものである。
また、この選手別ポスターの文字が「槍」になったのは、真っ直ぐしか打てないからだと井上と立浪が語っていた(勿論実際には変化球も打てるが、インサイドの直球に強いのも事実である)。
内外野全てのポジションを守れることから、「宇野のゴールデングラブ賞」、「タブラン(田淵幸一のランニングホームラン)」と滅多にないことの例えとして森野将彦には「森野将彦のベストナイン」、「森野将彦のゴールデングラブ賞」と言う言葉が出来てしまっているが、前述の2つと違う点は複数のポジションをこなすことのできるユーティリティー性から投票が各ポジションに割れてしまうからである。
北京オリンピックアジア予選では背番号「31」を渡辺俊介に譲り、自らは「29」をつけた。この番号にした理由は「(当時の)年齢だから」と語っている。
高校時代に、羞恥心の上地雄輔と対戦したことがあるが、見事に本塁打を放った。上地は森野将彦のことを「ただ者ではない」と思っていた。
読売ジャイアンツの捕手であった原俊介は東海大相模高校野球部の1学年先輩であり、横浜ベイスターズ元投手の稲嶺茂夫、柔道シドニーオリンピック金メダリストの井上康生とは東海大相模高校の同級生であり、親交も深い。
中日のマスコット・ドアラとは特に仲が良く、公式ブログでもその光景が見られる。顔もどことなくドアラに似ていると言われる(ファンのみならず、コーチの川相昌弘も指摘している)。そのこともあって2008年に発刊されたドアラの著作「ドアラのひみつ」には森野将彦のインタビュー記事が掲載されており、ドアラに対しての思いなどを語っている。
本人は小学生の頃横浜大洋ホエールズファンだったと語っているが、憧れていた選手は阪神タイガースの掛布雅之(森野の背番号31は掛布と同じ)。
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