<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/">

  <channel rdf:about="https://dragons.gjpw.net/RSS/100/">
    <title>プロ野球中日ドラゴンズ選手名鑑</title>
    <link>https://dragons.gjpw.net/</link>
    <atom10:link xmlns:atom10="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="self" type="application/rss+xml" href="https://dragons.gjpw.net/RSS/" />
    <atom10:link xmlns:atom10="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" />
    <description>中日ドラゴンズの選手や球団の概要について</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:date>2010-03-20T17:38:50+09:00</dc:date>
    <items>
    <rdf:Seq>
      <rdf:li rdf:resource="https://dragons.gjpw.net/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81" />
      <rdf:li rdf:resource="https://dragons.gjpw.net/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C" />
      <rdf:li rdf:resource="https://dragons.gjpw.net/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9" />
      <rdf:li rdf:resource="https://dragons.gjpw.net/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6" />
      <rdf:li rdf:resource="https://dragons.gjpw.net/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80" />
    </rdf:Seq>
    </items>
  </channel>

  <item rdf:about="https://dragons.gjpw.net/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81">
    <link>https://dragons.gjpw.net/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81</link>
    <title>球団概要</title>
    <description>中日ドラゴンズ（ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons）は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。親会社は中日新聞社。ホームスタジアムはナゴヤドーム（1996年までは中日球場&amp;amp;rarr;ナゴヤ球場（名称変更））。

杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出...</description>
    <content:encoded><![CDATA[中日ドラゴンズ（ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons）は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。親会社は中日新聞社。ホームスタジアムはナゴヤドーム（1996年までは中日球場&rarr;ナゴヤ球場（名称変更））。<br />
<br />
杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出身者が多い。また、監督選考にも際しても、生え抜き中心と言う訳では無く、2年以上在籍したかつての移籍選手でも数年在籍する傾向がある一方で、山内一弘や山田久志の様に、ドラゴンズの選手経験が無い、所謂「外様」に関して言えば、風当たりが厳しく、リーグ優勝及び日本一経験があるのも、2009年シーズン終了後現在では天知俊一のみである。但し、監督交代の激しいチーム事情もあり、かつては2～3年以内での交代も珍しくは無く、通算で5年以上務めたのは、天知、杉浦清、与那嶺要、星野仙一、落合博満の5人だけである。<br />
<br type="_moz" />
打線の愛称は「恐竜打線」「強竜打線」など。かつてナゴヤ球場（改修前）を1軍ホームグラウンドにしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかしナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り一転、投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、 2004年以降は奮起も目立ち再度の定着を果たした。<br />
<br />
東海地方唯一の球団ということもあり、地元には熱心なドラゴンズファンが多い。また、近隣の岐阜、豊橋、浜松などでは毎年地方試合が開催されている。<br type="_moz" />]]></content:encoded>
    <dc:subject>球団概要</dc:subject>
    <dc:date>2010-03-20T17:38:50+09:00</dc:date>
    <dc:creator>No Name Ninja</dc:creator>
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>
    <dc:rights>No Name Ninja</dc:rights>
  </item>
  <item rdf:about="https://dragons.gjpw.net/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C">
    <link>https://dragons.gjpw.net/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C/%E4%BA%95%E7%AB%AF%E5%BC%98%E5%92%8C</link>
    <title>井端弘和</title>
    <description>井端弘和について
井端弘和（いばたひろかず））
1975年5月12日生まれ。
神奈川県川崎市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手（内野手）。




 


井端弘和プレースタイル
二塁手の荒木雅博と共にドラゴンズの内野の要であり、荒木との二遊間は黄金の二遊間として知ら...</description>
    <content:encoded><![CDATA[<font size="3"><strong>井端弘和について</strong></font><br />
井端弘和（いばたひろかず））<br />
1975年5月12日生まれ。<br />
神奈川県川崎市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手（内野手）。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/ibata_hirokazu/ibata_hirokazu.jpg" alt="井端弘和画像" /></a><br />
<br />
<script type="text/javascript"><!--
google_ad_client = "pub-2319749091561702";
/* 336x280, 作成済み 09/07/25 */
google_ad_slot = "8883595254";
google_ad_width = 336;
google_ad_height = 280;
//-->
</script> <script type="text/javascript"
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
</script><br />
<br />
<font size="3"><strong>井端弘和プレースタイル</strong></font><br />
二塁手の荒木雅博と共にドラゴンズの内野の要であり、荒木との二遊間は黄金の二遊間として知られている。。<br />
2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田一浩特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。だがオープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田一浩によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている（金森の打撃理論を理想的に実践しているため）。 捕手出身ゆえに強肩で送球も正確であるが、守備範囲が狭く、打球を見失うなどお粗末なプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。<br />
堅守のほかにも、毎年3割前後の打率を残している上に選球眼に優れ四球も選べるので、出塁率も安定しており走者の盗塁をアシストする場面も目立つ。頻繁に二桁盗塁を記録するなど足も速い。更に三振が少なく、バントや右方向への流し打ちも上手い等非常に器用な選手で主に2番打者として活躍している。<br />
<br />
<font size="3"><strong>井端弘和プロ入り前</strong></font><br />
中学までは投手、堀越高校時代に夏の甲子園に出場。その後亜細亜大学に進学。東都大学リーグ1部リーグ通算81試合出場、269打数78安打、打率.290、4本塁打、33打点。3季連続ベストナインに選ばれた。1998年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>井端弘和プロ入り後</strong></font><br />
入団から2年間は二軍生活で、1999年は一軍出場なし、2000年から後半の守備固め、代走としての出場が主であったが、翌2001年から遊撃手のレギュラーに定着して全試合出場を果たして以来、不動の遊撃手として活躍。2004年には、チームの柱としてリーグ優勝に貢献し、自身初となる打率3割とベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞する活躍をみせた。<br />
<br />
伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。 <br />
<br />
国際経験は多く、2001年台湾で開催されたIBAFワールドカップ（4位）、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ（準々決勝リーグ敗退）日本代表を経て、2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では長嶋ジャパンの一員として優勝し、オリンピック出場に貢献した。2007年の北京オリンピック予選にも出場し、本戦出場権獲得に貢献した。 <br />
<br />
2008年8月3日にFA権を取得するも、その日の中日スポーツ朝刊で残留を宣言、2008年12月16日に球団史上最長の5年契約を結ぶ。2008年12月22日、テレビ朝日アナウンサー河野明子と結婚。 <br />
<br />
肩の故障もあり2009年シーズンから二塁手にコンバートされる予定であったが、井端本人の調整が目の不調により遅れたことに加え、代わって遊撃手を務める予定であった荒木が開幕直前に足を痛めたことで見送られ、遊撃手として2009年の開幕を迎えた<br />
<br />
<font size="3"><strong>井端弘和エピソード</strong></font><br />
中学時代（城南品川シニア）は豪腕投手として有名。2年生の時、1安打完封を成し遂げた試合を、偶然、当時評論家であった現楽天イーグルス監督の野村克也氏が見ており、野村氏から実家に「堀越（学園高）に行って内野をやらせてみたら」と電話があったことがきっかけで、堀越高校に進学し、1年生で遊撃手のレギュラーになった。現在でも、今の自分があるのは野村氏のおかげと語っている。<br />
<br />
本人は「30代で結婚したい」と語っており、同い年でドラフトでも同期入団の川上憲伸とはお互いに「先に結婚する」と言い合っていた。結婚に関しては他の選手からネタにされていて、2007年シーズン開幕前に主力選手が出演したテレビ番組では、「今シーズンの抱負」として井上一樹が「結婚式の司会」、岩瀬仁紀が「友人代表挨拶」、福留孝介が「2次会の仕切り」などの発言をしていた。そして2008年12月にテレビ朝日の報道ステーションの河野明子アナウンサーと結婚した。]]></content:encoded>
    <dc:subject>井端弘和</dc:subject>
    <dc:date>2010-02-05T01:19:18+09:00</dc:date>
    <dc:creator>No Name Ninja</dc:creator>
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>
    <dc:rights>No Name Ninja</dc:rights>
  </item>
  <item rdf:about="https://dragons.gjpw.net/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9">
    <link>https://dragons.gjpw.net/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%B5%A9</link>
    <title>和田一浩</title>
    <description>和田一浩について
和田一浩（わだかずひろ）

1972年6月19日生まれ。
岐阜県出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手（外野手、2001年までは捕手登録）。 ニックネームは同姓の和田勉にちなんだベンちゃん（ベン）、もしくはビッグベンなど。




 


和田一浩プレー...</description>
    <content:encoded><![CDATA[<font size="3"><strong>和田一浩について</strong></font><br />
和田一浩（わだかずひろ）<br />

1972年6月19日生まれ。<br />
岐阜県出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手（外野手、2001年までは捕手登録）。 ニックネームは同姓の和田勉にちなんだベンちゃん（ベン）、もしくはビッグベンなど。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/wada_kazuhiro/wada_kazuhiro.jpg" alt="和田一浩画像" /></a><br />
<br />
<script type="text/javascript"><!--
google_ad_client = "pub-2319749091561702";
/* 336x280, 作成済み 09/07/25 */
google_ad_slot = "8883595254";
google_ad_width = 336;
google_ad_height = 280;
//-->
</script> <script type="text/javascript"
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
</script><br />
<br />
<font size="3"><strong>和田一浩プレースタイル</strong></font><br />
独特の打撃フォームから弾き出す安定した打撃が特徴。2009年6月21日の対オリックス戦で通算打率ランク算出の最低ラインとなる4000打数に到達したが、その時点での通算打率.315は日本人右打者としては最高打率であり、三度の三冠王を獲得した落合博満（現中日監督、同じく右打者）をも上回る。（ちなみに、4000打数以上での歴代最高打率記録保持者はレロン・リー（元ロッテ）の.320である。）率だけでなく広角に長打も打てる強打者でもあり、2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo.1になっている。西武在籍時は、5番に和田一浩がいることで相手バッテリーが4番カブレラとの勝負を避けられない場面が多かった。<br />
バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く、三振は少ない。スイングの後、腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもある。しかし最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事により併殺打が多い。<br />
2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田一浩特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。だがオープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。 独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田一浩によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている（金森の打撃理論を理想的に実践しているため）。 捕手出身ゆえに強肩で送球も正確であるが、守備範囲が狭く、打球を見失うなどお粗末なプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。<br />
レギュラー定着後、7年で3割以上を6度記録など華々しい記録をもっているが、シーズン100打点を記録したことは1度もない。原因としては故障などでフル出場した年が無いことと、前打者であるカブレラがホームランバッターであるためランナーが既にホームランによって帰されている場面があった事が挙げられる。得点圏打率は年によってややムラがある事も特徴。しかし、2006年シーズンは100打点にはとどかなかったものの19本塁打で95打点であった。しかし、その年は和田一浩がレギュラー定着後、唯一打率3割（.298）を切った年でもある。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>和田一浩の人物像</strong></font><br />
週刊ベースボールに「和田勉」と誤植されたことがあった。<br />
県立岐阜商業高校の同級生にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子がいる。<br />
ただ、和田一浩と高橋尚子は高校時代は互いに面識こそあったものの会話をしたことは一度もなかったという。<br />
母校では和田一浩と高橋尚子、高木守道の3人をまとめて&ldquo;ビッグ3&rdquo;と呼ばれている。<br />
2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、イベントは大盛況のうちに終わった。<br />
ここ数年捕手としての出場はないが、捕手がいなくなった場合捕手を守らせると中日首脳陣に言われているらしい<br />
。 2009年からスタートした和田一浩自身のブログによると、今までパソコンではソリティアでしか使用したことがないらしい。<br />
若い頃から髪が薄いが、和田一浩本人はそれほど気にしている様子も無く時々ネタにしているほどである。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>和田一浩プロ入り後</strong></font><br />
<strong>1996年～</strong><br />
1996年度のドラフトで西武から4位指名され、捕手として入団。ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録した。 1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録した。<br />
<br />
<strong>1999年</strong><br />
伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。 <br />
<br />
<strong>2000年</strong><br />
打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外のすべての打順でスタメン出場した。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。 シーズン前、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた1ケタの番号5を譲ってもらった。 <br />
<br />
<strong>2001年</strong><br />
東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外すべてに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。 <br />
<br />
<strong>2002年</strong><br />
新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着した。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打 33本、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかしレギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打と足を引っ張ってしまった。指名打者部門で初のベストナインを受賞。 <br />
<br />
<strong>2003年</strong><br />
前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞する。 <br />
<br />
<strong>2004年</strong><br />
アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。5月 30日の函館市千代台公園野球場での北海道日本ハムファイターズ戦で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦北海道日本ハムファイターズ戦で、横山道哉からサヨナラホームランを放ち、チームを勢い付ける。後に移籍することになる中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。  <br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦（打率.319）以来12年ぶり。4年連続30本塁打には 3本届かなかった。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
3月、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。<br />
シーズンでは6・7月に不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献した。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録した。本塁打はレギュラー定着後最低の18本にとどまり、打点は前年の約半分の49（9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった）と、5番打者としては物足りない数字に終わった。この年は走者が詰まっている場面（一塁・一塁二塁・満塁）では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録してしまった（逆に走者なしでは.353と好調であった)。<br />
この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、和田一浩本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決した。なお、背番号は西武時代と同じ&quot;5&quot;が内定し、3年契約となる。なお、それに伴う人的補償で岡本真也投手が西武に移籍した。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲であるタイロン・ウッズが不調の時には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンは、チャンスでもっと打っていきたい」と発言している。 <br />
<br />
<strong>2009年</strong><br />
春季キャンプで打撃改造を行う。昨年主砲のウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待される。4番に座る可能性もあったが開幕はいつもの5番でスタートし、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切る。4月25日の対巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。その後も持ち味の勝負強いバッティングも健在ながら本塁打も量産中。]]></content:encoded>
    <dc:subject>和田一浩</dc:subject>
    <dc:date>2009-09-18T00:08:17+09:00</dc:date>
    <dc:creator>No Name Ninja</dc:creator>
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>
    <dc:rights>No Name Ninja</dc:rights>
  </item>
  <item rdf:about="https://dragons.gjpw.net/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6">
    <link>https://dragons.gjpw.net/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%B0%86%E5%BD%A6</link>
    <title>森野将彦</title>
    <description>森野将彦について
森野将彦（もりのまさひこ）
1978年7月28日生まれ。
神奈川県横浜市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手である。
ポジションは内野手（主にサード）だが、最近は外野（主にセンター）をつとめる。背番号は31番。




 


森野将彦プレースタイル...</description>
    <content:encoded><![CDATA[<font size="3"><strong>森野将彦について</strong></font><br />
森野将彦（もりのまさひこ）<br />
1978年7月28日生まれ。<br />
神奈川県横浜市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手である。<br />
ポジションは内野手（主にサード）だが、最近は外野（主にセンター）をつとめる。背番号は31番。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/morino_masahiko/morino_masahiko.jpg" alt="森野将彦画像" width="150" height="150" border="0"></a><br />
<br />
<script type="text/javascript"><!--
google_ad_client = "pub-2319749091561702";
/* 336x280, 作成済み 09/07/25 */
google_ad_slot = "8883595254";
google_ad_width = 336;
google_ad_height = 280;
//-->
</script> <script type="text/javascript"
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
</script><br />
<br />
<font size="3"><strong>森野将彦プレースタイル</strong></font><br />
高い打撃力で打線の主軸を打ちながら、穴の空いたポジションを堅実に穴埋めしており、「全く新しいタイプのユーティリティプレーヤー」と形容されることもある。<br />
走塁の技術にはさほど目立った上手さはないものの、もともと剛速球にも力負けしない打撃力を武器に台頭、チーム事情から内野全ポジションをそこそこに守れるという選手であった。落合監督就任後のキャンプで鍛えられた守備力は年を経るごとに向上し、現在ではバッテリー以外のポジションを標準程度の守備力で守ることができる。<br />
2007年、中村紀洋の加入で守る機会が増加したレフトの守備もまだ若干打球判断に不安があるが、守備範囲は標準で無難にこなす（両翼を守る選手としては十分に広い）。肩は強肩ではないが内外共に安定したスローイングができる。そのため、サードかレフトで先発出場した後、渡邉博幸やタイロン・ウッズに代わりファーストの守備固めに入っていた。この年は内外野すべてのポジションに就いた。<br />
阪神戦や、ヤクルト戦に強いと言われるが、最近は巨人戦で目立った活躍をすることも多い。左投手・速球派投手にも強い。高めのインコースに強く、また左方向にホームランを打つ技術も持っている。<br />
通算本塁打の割合に3ランが多い（特に2007年シーズンは、レギュラーシーズンは18本中8本。ポストシーズンでも2本中1本）ことから「ミスター3ラン」の異名を持つ。ちなみに、2007年までの通算55本中19本が3ラン。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>森野将彦プロ入り前</strong></font><br />
東海大相模高では1年目よりレギュラーとして活躍し、2年の春の選抜に出場。3年時には主砲として、全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝で横浜高校と対戦したが、3四球の敬遠と勝負を避けられ、チームは惜敗。しかし唯一相手が勝負にきた打席では本塁打を打ち、意地を見せている。また、高校通算38本塁打の記録を持つ。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>森野将彦プロ入り後</strong></font><br />
<strong>1996年～</strong><br />
1996年将来の4番、ポスト立浪和義としてドラフト2位で中日に入団。<br />
ルーキーイヤーの1997年8月29日ナゴヤドームでの対ヤクルトスワローズ戦8番・ショートで初先発出場し、初ホームランを放った（高卒新人本塁打は中日では1988年の立浪、セ・リーグでは1993年の読売ジャイアンツ・松井秀喜以来）。<br />
2002年からスタメンの機会が増える。本来は内野手だが、2004年はファーストとレフトで出場（同時に左の代打）。 <br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
井上一樹、大西崇之、英智らとレフトのポジション争いに加わった。また立浪に代わってサード（まれにファースト）としても出場することで出場機会を増やした。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
立浪とのレギュラーをキャンプから争う。しかし、オープン戦で死球を受け右手小指を骨折。サードの座を立浪に譲る。交流戦半ばに復帰し、荒木雅博の故障のためセカンドを守り、1番を打つ。プロ初の満塁ホームランとプロ初のサヨナラヒットを同じ日に放つなど活躍した。荒木の復帰後、立浪からサードのポジションを奪い5番、6番を打つ。勝負強い打撃で一時打率3割、得点圏打率4割をマークする。9月以降は疲れからか打率を下げたが、初めて規定打席に到達し、打率.280、初の2桁本塁打を打って中日のリーグ優勝に貢献した。<br />
2006年オフに、中日はFA宣言した北海道日本ハムファイターズの小笠原道大の獲得に乗り出すと見られていた。もし獲得が実現すれば森野将彦は外野にコンバートされる可能性が大きいと言われていたが、落合監督は「サードには森野将彦がいる。猛練習で立浪からレギュラーを奪ったんだ」と語り、小笠原の獲得には動かないことを表明した。だがその後オリックス・バファローズを自由契約になった中村紀洋を獲得し、結局森野はレフトへコンバートされた。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
中村紀洋の加入に伴い、左翼手として開幕戦を迎えた。その後は荒木の戦線離脱もあり、前半戦はセカンドでも起用される。この年はオールスターに初出場を果たし優秀選手賞に選ばれた。後半戦以降は福留孝介の離脱もあり、センターやライトとしての出場も増え、主に5番か3番を任された。2年連続で規定打席に到達し、更に自己最高の打率.294、18本塁打の成績を残し、日本シリーズでも4打点を上げて優秀選手賞に選ばれた。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
春季キャンプで左手甲を骨折し、途中で離脱。開幕スタメンが絶望視されたが脅威の回復力により、センターとして開幕戦を迎えた。開幕当初は7番での起用だったが、徐々に成績を上げて6番での起用を経て3番に戻る。5月14日のヤクルト戦で左ふくらはぎ肉離れで戦線を離脱したが7月5日に復帰を果たした。北京オリンピック終了後は井端弘和が怪我で戦線離脱すると1番を、主砲・タイロン・ウッズが不調の際には4番も経験するなど、このシーズンは「2番」と「8・9番」以外の打順全てを経験している。また規定打席にも到達し、自信初の打率3割をマークした。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>森野将彦のエピソード</strong></font><br />
2006年9月16日の山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神戦で、4回の守備中にライン際の打球をエラーしてしまい、結果的に完全試合はならなかった。本人も気に病んでいたが、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそ（ノーヒットノーランの）記録が達成できた」と発言した（捕球体勢が不十分であり、仮に送球していたら打者が足の速い赤星であったことから、「内野安打になって記録が途絶えた」とする意見もある）。また、山本はドラゴンズ投手内では「森野将彦がエラーで出したランナーは点にならない」との法則があることを明かしている。<br />
他人の都合で背番号を振り回されることがファンの間で語り草になったこともある。1999年は李鍾範との入れ替え、2001年に波留敏夫の移籍により8番から16番になった時は高校の先輩で読売ジャイアンツ監督の原辰徳に「倍以上頑張れ」と叱咤激励された。2004年は「10番台は野手っぽくない」という落合博満監督の意向による変更、2006年はルーキー平田良介の入団及び平田本人の希望に伴う変更である。このとき31番にしたのは掛布雅之に憧れていたからでもある。<br />
落合監督からは特に素質をかわれている。就任後、初のリーグ優勝を決めた2004年の秋季キャンプで守備練習をしていた中、ノックの本数を間違えた森野将彦はそれを笑って訂正した。それを見た落合監督は珍しく激怒し、他の全選手・コーチが見ている中、森野将彦だけを守備に就かせ厳しいノックの嵐を浴びせた。それまでチームの中で甘え向上心に欠けていた姿勢、非凡な打撃センスを持ちながら、スタミナ不足などの理由でレギュラーになれなかった弱さを改めて認識することになった。他にもグラウンドでへばっている中バケツで水を掛けられ叩き起されるなどの特訓が続けられた結果、これらの厳しい練習がきっかけとなり、体力的にも精神的にも鍛え直され、その後大きく飛躍することができた。<br />
2007年のカレンダーには槍と書かれていた。優勝後のサンドラの取材で今の気持ちはと聞かれ「槍っす」と答え度肝を抜いた。元々は井上一樹が2006年に作成した選手別のポスターに森野将彦は「槍」と描かれていたものである。<br />
また、この選手別ポスターの文字が「槍」になったのは、真っ直ぐしか打てないからだと井上と立浪が語っていた（勿論実際には変化球も打てるが、インサイドの直球に強いのも事実である）。<br />
内外野全てのポジションを守れることから、「宇野のゴールデングラブ賞」、「タブラン（田淵幸一のランニングホームラン）」と滅多にないことの例えとして森野将彦には「森野将彦のベストナイン」、「森野将彦のゴールデングラブ賞」と言う言葉が出来てしまっているが、前述の2つと違う点は複数のポジションをこなすことのできるユーティリティー性から投票が各ポジションに割れてしまうからである。<br />
北京オリンピックアジア予選では背番号「31」を渡辺俊介に譲り、自らは「29」をつけた。この番号にした理由は「（当時の）年齢だから」と語っている。<br />
高校時代に、羞恥心の上地雄輔と対戦したことがあるが、見事に本塁打を放った。上地は森野将彦のことを「ただ者ではない」と思っていた。<br />
読売ジャイアンツの捕手であった原俊介は東海大相模高校野球部の1学年先輩であり、横浜ベイスターズ元投手の稲嶺茂夫、柔道シドニーオリンピック金メダリストの井上康生とは東海大相模高校の同級生であり、親交も深い。<br />
中日のマスコット・ドアラとは特に仲が良く、公式ブログでもその光景が見られる。顔もどことなくドアラに似ていると言われる（ファンのみならず、コーチの川相昌弘も指摘している）。そのこともあって2008年に発刊されたドアラの著作「ドアラのひみつ」には森野将彦のインタビュー記事が掲載されており、ドアラに対しての思いなどを語っている。<br />
本人は小学生の頃横浜大洋ホエールズファンだったと語っているが、憧れていた選手は阪神タイガースの掛布雅之（森野の背番号31は掛布と同じ）。 ]]></content:encoded>
    <dc:subject>森野将彦</dc:subject>
    <dc:date>2009-09-12T01:44:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>No Name Ninja</dc:creator>
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>
    <dc:rights>No Name Ninja</dc:rights>
  </item>
  <item rdf:about="https://dragons.gjpw.net/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80">
    <link>https://dragons.gjpw.net/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BB%81%E7%B4%80</link>
    <title>岩瀬仁紀</title>
    <description>岩瀬仁紀について
岩瀬仁紀（いわせひとき）
1974年11月10日生まれ。
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手 （投手）。




 


岩瀬仁紀人物像
中日入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。初めて最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両方を受賞した投手で...</description>
    <content:encoded><![CDATA[<font size="3"><strong>岩瀬仁紀について</strong></font><br />
岩瀬仁紀（いわせひとき）<br />
1974年11月10日生まれ。<br />
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手 （投手）。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/iwase_hitoki/iwase_hitoki.jpg" alt="岩瀬仁紀画像" /></a><br />
<br />
<script type="text/javascript"><!--
google_ad_client = "pub-2319749091561702";
/* 336x280, 作成済み 09/07/25 */
google_ad_slot = "8883595254";
google_ad_width = 336;
google_ad_height = 280;
//-->
</script> <script type="text/javascript"
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
</script><br />
<br />
<font size="3"><strong>岩瀬仁紀人物像</strong></font><br />
中日入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。初めて最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両方を受賞した投手でもある。彼を初めとする中継ぎ投手の活躍は、旧来評価の低かった中継ぎ投手の地位を向上させ、オールスターゲームファン投票における中継ぎ部門の創設に繋がったとの見方もある。<br />
あだ名は「満太朗」（元同僚の野口茂樹投手が命名。由来は不明）。また公私ともに仲の良い川上憲伸投手は、岩瀬仁紀の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる。<br />
後述の独特のスライダーの投球法は、キレは増すものの体への負担は非常に大きくなってしまうが、入団以来9年連続で50試合以上登板を記録し続けていて、この間に致命的な故障もなく防御率も常に高いレベルで維持しており、酷使され活躍できなくなっていった過去の多くの投手とは対照的である。このように現在まで長年活躍できているのは、1日のうち数時間費やすほどの丹念な体のケアと自己管理によるものであり、自らの今後の活躍によっては日本プロ野球初の 1000試合登板達成や生涯防御率1点台の可能性もある。<br />
<br />
<font size="3"><strong>岩瀬仁紀プロ入り前</strong></font><br />
西尾東高では、我流の投法ながら、県大会でノーヒットノーランを記録。最後の夏は地方大会4回戦で敗退。「次（5回戦の相手）が甲子園の常連の東邦だったので、もう1回勝ちたかった」とのこと。なお、彼が所謂強豪校へ進学しなかったのは、野球をやりつつも共学の楽しみも味わいたかったため。 愛知大学野球部時代は外野手兼任。通算安打でリーグ歴代2位の124本を記録（1位は元中日の神野純一）し、打者として注目された事もあった。主に中継ぎ・抑えでの登板が多いため打席に立つことは少ないが、たまに立った打席では気を抜いた相手投手から痛烈なヒットを打つこともある。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>岩瀬仁紀プロ入り後</strong></font><br />
<strong>1998年</strong><br />
NTT東海よりドラフト2位で中日ドラゴンズを逆指名。同年の1位は福留孝介、3位は小笠原孝、4位は蔵本英智（現登録名：英智）とかなり粒揃いだった。また、有力社会人選手の獲得競争に出遅れていた阪神タイガースが猛アタックを仕掛け、ドラフト1位で逆指名を得ようとしたが失敗に終わる。 <br />
<br />
<strong>1999年</strong><br />
ルーキーイヤーから左のセットアッパーを務め、持ち前のコントロールとスライダーを武器に落合英二・李尚勲（サムソン・リー）・宣銅烈らと共に活躍し、この年の優勝に貢献する。最優秀中継ぎ投手も受賞する。数字上も防御率1.57、中継ぎながら10勝と上々の数字を残すものの、同期の新人に20勝投手となった巨人の上原浩治がおり、新人王争いは上原に軍配が上がった。 <br />
<br />
<strong>2000年</strong><br />
10月8日の対広島戦で1試合のみ先発経験あり（7回7安打1失点で勝ち投手）。元々先発を希望していたこともあり、当時の星野仙一監督がテストも兼ねて起用した。  <br />
<br />
<strong>2004年</strong><br />
落合博満新監督より新ストッパーに指名されるも、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。なんとか開幕に間に合わせたが、開幕直後は評論家から「岩瀬らしい軸足の蹴り上げがない」などと厳しい意見を浴び、前半戦は不調が続き苦労した。それでも2勝3敗22セーブの成績で5年ぶりの優勝に貢献する。 <br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
10月1日、ナゴヤドームで行われた広島戦において46セーブ目を達成し元横浜ベイスターズ・佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新。この年は60試合に登板しながら被本塁打0だった。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
4月4日の横浜戦（横浜スタジアム）で、9回裏に多村仁に同点となる2ランホームランを打たれ救援失敗（ただしこの試合はそのまま引き分けに終わったので敗戦投手とはならず）、2004年9月25日の横浜戦（横浜スタジアム）の村田修一を最後に許していなかった本塁打を打たれてしまい、これにより被本塁打 0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。同年7月16日の阪神戦にて9回表1死3塁から初球をセンターへ打ち上げ犠飛を記録。同年7月30日の対巨人戦でプロ入り通算100セーブを達成。同年10月8日の横浜戦にて日本プロ野球界初の2年連続40セーブを達成した。そしてマジック1で臨んだ2日後の 10月10日巨人戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2イニングを無失点に抑え12回表にチームが勝ち越したため、岩瀬は悲願だった胴上げ投手となり、チームはこの日2年ぶりのリーグ優勝を決めた。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
4月6日、対横浜戦において郭源治の持つ中日球団の個人通算セーブ記録を更新する117セーブ目を挙げた。同年7月7日、通算500試合登板を達成（9年目での達成は史上8人目）。同年9月8日、元大洋ホエールズの秋山登に並ぶ、9年連続50試合登板のプロ野球タイ記録を樹立。翌日の9月9日には、史上6 人目の150セーブを達成した。同年9月19日、対ヤクルト戦において日本プロ野球界初の3年連続40セーブを達成した。しかしこの年は、5月2日の対巨人戦で延長10回からマウンドに立ち、延長11回に2アウトを取った直後に連打され自責点2で敗戦、巨人の通算5,000勝達成の引き立て役にされ、7月 16日の対ヤクルト戦で自身初の1イニング中（記録としては2/3回）被安打6、自己最多となる自責点5で敗戦投手となり、1試合の救援成功をはさんだ後の7月24日の対阪神戦でも自責点3で敗戦投手となるなど、シーズン中盤に極度の不振に陥った。その後は安定感を取り戻したものの、ストレートの球速が 140km/hを下回るケースや低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであった（年度別成績の比較で入団3、 6年目の成績が低調であり、9年目の今シーズンも同様であることから、「岩瀬仁紀の不調は3年周期」と評されることがある）。<br />
クライマックスシリーズでは、対阪神の第1ステージ第2戦から対巨人の第2ステージ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投を抑えきり、日本シリーズへと進出する。3勝1敗で迎えた日本シリーズ第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介からバトンを受け9回に登板。三者凡退に抑えてチーム53年ぶり日本一の胴上げ投手となり、山井とともに史上初の継投による完全試合を達成した（ただし日本では完投が条件の個人記録となっている）。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
出身地の愛知県西尾市の「ふるさと大使」に就任。主に西尾市でのイベントの告知ポスターに登場することが決定。6月14日、オリックス・バファローズ戦の 9回裏に1点リードの状況で登板したが、アレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラホームランを被弾し、負け投手となった。北京オリンピックの野球日本代表選手に選出。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>岩瀬仁紀のプレースタイル</strong></font><br />
投球の5割以上を占めるスライダーが最大の武器であり、特に左打者には有効で被打率は低い。持ち球は数種類のスライダーに加え、シュート、シンカー、 SFFなど。かつては150km/h近い速球とスライダーを中心に投球を組み立てる典型的な速球派投手であったが、近年はクセのある直球と鋭くキレる変化球を抜群のコントロールで左右に投げ分けて揺さぶる技巧派スタイルに投球を変化させている。<br />
細身ながら淡々と無表情のまま打者を打ち取っていき、また背番号が「13」（タロットカードに於ける死神は13番に位置する）で、決め球の打者の手元で鋭く大きく曲がるスライダー（普通の投手は手首を外側にひねって曲げるが、彼の場合は体も逆側にひねるため、よりキレが増す）が鎌を思わせることなどから、ネット上では岩瀬仁紀は死神とも呼ばれ、岩瀬仁紀のスライダーは（死神の）鎌とも呼ばれる。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>岩瀬仁紀のエピソード</strong></font><br />
中学時代になぜか茶摘みをしている際に脱臼した事がある（地元の愛知県西尾市は日本一の碾茶=抹茶の原料=の産地で、地元の中学生は学校行事で茶摘体験をする）。<br />
愛知大学時代、前述のように通算安打は神野に一歩及ばなかったが、「あの時もう一本打って、（通算安打記録が）並んでいたら、野手に未練があったし、こだわっていただろう」と語っている。<br />
彼の活躍の要因の一つに、スリークォーター気味の個性的なそのフォームが挙げられる（一般にアーム式と呼ばれる）。しかしこのフォームは専門家からみて理に適ったフォームとは言い難いらしく、今中慎二、川崎憲次郎といった、肩を壊した経験のある一流投手も「入団当初岩瀬仁紀のフォームを見て、絶対肩を壊すだろうなと思った」（今中談）らしい。また入団した直後の春のキャンプではストライクがまったく入らず、当時の山田久志投手コーチは本気でアンダースローへ転向させようとしたが、岩瀬仁紀は自分の信ずるまま投げ続けたという。そして現在に至り、肩を壊すどころかその驚異的な登板数と防御率を見ると、そのフォームは彼にとってまさに「理に適った」フォームだったのだろうと考えられる。<br />
2004年9月4日の広島戦の9回表、控え野手がいなくなったため落合英二の打順で代打出場する予定だった（実際は落合まで打順が回らず試合終了）。<br />
愛車との縁は悲惨なものがある。東海豪雨による大水害でナゴヤドームの駐車場に停めてあった愛車が水没したほか、タイヤだけが盗まれたり、車上荒らしに遭うなど、エピソードには事欠かない。<br />
チームメイトの山本昌と山崎武司（現楽天）が主催するラジコンレース「山々杯」に数回参加している。野口茂樹と共に参加したこともあった。<br />
学生時代、ナゴヤ球場で試合前に行われるスピードガンコンテストに参加し、136km/hを記録。予定では覆面を被って140km/hを出そうとしたが、事前に練習をさせてもらえず、いきなり全力で投げたために肩を痛め、社会人の最初の何ヶ月かを棒に振ったらしい。<br />
マウンドでは無表情で黙々とストライクを重ねていく彼も、ひとたびマウンドを降りるとベンチ裏で「実はビビッていたんだ」と口にするなど人間臭い一面も見せる。また、祝勝旅行の際には必ずといっていいほど珍エピソードを生むなど、素顔の彼は自然体であることが伺える。さらに酒を飲ませると人格が緩くなるとか。「マウンド外の岩瀬仁紀にはオーラがない」はファンの間では半ば常識となっており、同僚の川上憲伸とタクシーに同乗した際、運転手の問いかけに川上が「こっち（＝岩瀬仁紀）はマネージャー」と答えたところまったく疑われなかったと岩瀬仁紀自身も語っている。 現在は抑えをつとめる岩瀬だが、2006年からオープン戦の本拠地開幕投手をつとめており、1イニング程度を投げる。公式戦でも見られない投手起用が実現できるのもオープン戦ならではと言える。<br />
2006年の優勝決定試合のとき、12回表の打席で送りバントを失敗したところ川上に「どうしよ～失敗しちゃったよ～」と語り、その回に味方が6点を取ったときには「（逆転されたら）どうしよ～」と弱々しく語っていた。<br />
2007年、中日スポーツ一面にて「洋服は川上憲伸に買ってきてもらっている」と発言。事実、同年10月21日、クライマックスシリーズ優勝特別番組にて、川上と同じブランドの洋服を着用していたところを見ると、公私共に親密のようだ。<br />
日本一を決定した2007年の日本シリーズ第5戦の登板時は、完全試合が継続中で最小点差の1点リード、なおかつ53年ぶりの日本一が地元ナゴヤドームで決められるかが懸かっていた。それまで数々の修羅場を潜ってきたとはいえ、さすがにこのような大記録がかかっている中での登板は例が無く、「足が震えた。今までで一番緊張した」と語っている。また後に落合監督は、完全試合という記録と引き換えにしてまで岩瀬仁紀を登板させた理由として、先発の山井大介の状態と、古傷の肩に不安があるため将来の野球人生への影響を考えて勝負に徹して継投した事に加えて、岩瀬仁紀投手が球界を代表する絶対的な抑えであり、また長年チームに貢献してきた事への功労も称えてのものだったと述べている。また、「山井が万全であっても岩瀬仁紀に代えていたかも知れないですね」とも語っている。]]></content:encoded>
    <dc:subject>岩瀬仁紀</dc:subject>
    <dc:date>2009-09-06T21:44:54+09:00</dc:date>
    <dc:creator>No Name Ninja</dc:creator>
    <dc:publisher>NINJA BLOG</dc:publisher>
    <dc:rights>No Name Ninja</dc:rights>
  </item>
</rdf:RDF>
